備忘録と日々の雑感,ときどきオリックス。
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では、以下本題。現代思想のこの号では、13本の特集論文が掲載されています。
サブタイトルは、「言語のポリティクス」。特集部分目次は、以下。
=================================================================
<モダニズムと脱構築>
・断固として近代的であること J・ハーバマス 訳 山脇 直司
・哲学的言語は存在するか? J・デリダ 訳 鵜飼 哲
<ミメシス>
・ハイデガー・ナチズム・<ユダヤ性> Ph・ラクー・ラバルト,鵜飼 哲,大西 雅一郎
・ミメシス・言葉・暴力 ベンヤミンとフロイトの場合 大西 雅一郎
<共同体>
・回帰の法と共同体 存在の問いと倫理学のあいだ 高橋 哲哉
・国境線上のジャック・デリダ 鈴村 一成
<テクノロジー>
・真理の黙示録あるいは核戦争の発明 増田 一夫
<徹底討議>
・デリダ・出来事・以降 高橋 哲哉・増田 一夫・港道 隆
<暴力>
・デリダ,レヴィナス,暴力 E・ウィショクラッド 訳 中島 隆博
・ouiとouiのアフォリズム 港道 隆
<テクスト>
・エクリチュールとコミュニケーション デリダとハーバマスの間 木前 利秋
・ド・マン,「自伝」の彷徨 ファシズム・翻訳・アレゴリー 有満 麻美子
・テクストの外部から文学史へ 富山 太佳夫
=================================================================
*****
・断固として近代的であること J・ハーバマス 訳 山脇 直司
このインタビュー記事は、以下の3つの点について論じてある。
①ポストモダン思想とハーバマスを分かつ点
「私は、主観性形而上学に対する批判は古くからある形だということ、
そして、それは近代的なるものに関する最初の討議に影響を与え、
ニーチェ以来、絶えず遂行論的矛盾につきまとわれ脅かされているのだ、
ということを示す一つの歴史を語っているに過ぎないわけです。」
つまり、モダン-ポストモダンを区別するとされる、主観性形而上学
に対する批判は、モダンに内在的な議論であったこと、そのため、
歴史の連続性を断絶する根拠になりえない。モダンへの批判としての
ポストモダンがモダンに依拠せざるを得ないことを「遂行論的矛盾」
と言っているのでしょうか。
②歴史主義による批判と、現代の課題について
「我々は、客観的目的論、総体性、絶対者等々を支持する形而上学的やり方に、
物事解明の権限を単純に再付与できないのです。しかしまた、他方において、
私は、ハイデガーが彼の形而上学的伝統に関する講義で提示したような、
プラトンからニーチェに至るまでの形而上学的連続性、すなわち、形而上学は
存在(das Sein)の代わりに存在者(das Seinde)を置く物象化されたやり方に
過ぎなかったという思想も、信じておりません。」
ハーバマスは、一方で、近代において形而上学を前提とすること
は出来ないという。他方で、形而上学が単なる主観主義でしか
なかった(?)という思想も、認めない。
「そうする(ポスト形而上学的前提から物事を考える)からといって、
何も我々が不安定で偶発的で一時的で地域的・地方的なある特定の
歴史的文脈に閉じ込められていることにはなりません。何故我々は、
そうした文脈に閉じ込められなければならないのでしょうか。」
「我々は、あらゆる論証的討議の形態に関して反省的な態度を
とりうるチャンスはもっています。」
ハーバマスは、この反省的な態度に依拠する討議に
現代社会への規範的方向付けの役割を期待をします。
「コミュニケーション的構造をもつ生活世界の強力な防御を促進しなければなりません。」
③「コミュニケーション的行為の理論」の意味
「あなたは、了解という理念に頼ることなしに、言語が何であるかを説明できません。
…中略…あなたは或る特定の前提から出発することを拒めないという弱い意味での
超越論敵必然性が存在するのです。」
了解の必要条件に、「規範的内容をもつ必然的な語用論的前提」というもの
がある。これは、もしあなたが行う行動に対して、私は、あなたに対して、
それが間違っていようといまいと、あなたがまじめな説明が出来ることを
前提として、「あなたは何をしたのですか」とか「あなたは何を言ったのですか」
とたずねる。これを、了解とよび、ハーバマスは相互主観性の基礎となり、
コミュニケーション的行為を通じた社会規範を作ろうとした。
かなり、荒いまとめですが、こんなとこでしょうか。以下、感想。
①は、遂行論的矛盾という用語は、もうちょっと詳しく知りたいですね。
この用語は、『近代の哲学的ディスクルス(1・2)』(岩波書店, 1990年)に
出てくるようですね。確かもってたはず・・・。
社会学の中では、ギデンズが議論しているモダニティの議論などがこれに
あたるんでしょうか。構造化理論の社会の捉え方などがこれと似てると思います。
でも、遂行という概念が入ることで、ギデンズより動的にとらえている気がします。
加えて、1990年ごろのフェミニズムの議論で登場したパフォーマティブ(J・バトラー)
なんかの話も、これと関係あるんですかね。あっちは、アルチュセール、
サール、フーコーなどを基にして、もっとミクロな議論だった気がしますが。
②これは、ネオ・マルクス系の研究者のマルクス主義批判と似てる構造でしょうか。
「資本主義は、イデオロギーだとして批判する」という「イデオロギー」というメタ構造。
要は、マルクス主義もイデオロギーの一つじゃんっと言って、相対化する視点。
では、どうすんの?という問いに、ハーバマスがとったのが、弱い超越論としての
了解を前提とした、コミュニケーション的行為の理論なわけですな。
その前に、ローカリズムの否定と誤解されそうな箇所がありますよね。
この根拠がいまいちよく分かりませんが、とりあえず、必然的理由はないということが、
インタビュー内では根拠とされています。
確かに、或る特定の時間・特定の地域に限定的な秩序を構想する多元的秩序の必然的な
根拠は、ないように思います。とはいえ、秩序が必要な領域は、多元的であるような場合
は、ありえるとおもいます。例えば、ごみの分別。収集されたゴミについて、高温で焼却できる
炉があれば、分別する理由がなく、そうなると、そもそもの分別ルールは必要ありません。
しかし、ハーバマスは、そんなことを言っているのではないでしょう。どちらかというと、個別の
問題というのは、コミュニケーション的行為を用いた討議の過程においてなされるべきことであり、
そのコミュニケーション的行為を成立させる必要条件に了解が位置づけられるということ
なのでしょうか。つまり、了解は普遍的であり、了解に基づいたコミュニケーション的行為の
結果は、多元的であるということでしょう。
じゃあ、人間の反省は、了解を前提としたコミュニケーション的行為とどう関係するのか。
おそらく、この反省性は遂行論的矛盾がその起源となっているのではないでしょうか。
一方で、形而上学的伝統に基づいた本質主義が存在し、他方で、本質主義とは、異なる本質を
措定することで、なりたっている反‐本質主義がある。
感覚的に理解するならば、「一般的には、こうすべきだ、このやりかたが正しいと言われている
けれども、実際の業務の中では、現場の事情で別のやり方じゃないと仕事にならない」という
ような感じ。これを、正しいやり方でやってもらわないと困るという経営者に対し、そんなやり方だ
と品質も担保できないし、納期に間に合わないから無理だという現場、これ中間管理職として
どう解決すればいいのかという解(もしくは落とし所)を見つけるプロセスにおいて、発揮されるもの
としての反省。こうとらえると、反省は、コミュニケーション的行為の中に織り込まれている駆動力
のようなものなのでしょうか。
③了解に関しては、②で触れたので、その疑問点について。よく言われている批判で、素朴なものは、
了解すら成り立たない場合があるんじゃないのか、というもの。これは、主に障碍者の問題です。
そもそも、了解としてとらえきれない可能性をもつ人々の存在。了解をどのようにとらえればよい
のでしょうか。この辺になると、引用元のヴィドゲンシュタインを確認せねばならんのか・・・。
次に、了解ではなく、コミュニケーション的行為の次元で問題になると思うのですが、
自分の言語をもたない人の問題です。これは、在日朝鮮人の2世3世や、先進国に来た途上国
の女性、ゲイ・レズビアンなど、いわゆるマイノリティの問題です。彼らは、了解はなりたちます。
しかし、コミュニケーション的行為において、彼らは彼ら固有の問題を、私たちの言葉でしか
語れません。そのほかの言葉は知らないし、彼ら自身の言葉は、私たちの言葉によって理解を
上書きされたものですから。
この点の議論は、スピヴァグあたりを参照しなければなさそうですね・・・。
最後に、相互主観性について。もしかして、今までの相互主観性についての僕の理解が
間違ってたかもと、思いました。どうも、主観的な相互性を相互主観と呼ぶような気がしました。
以上。
このインタビュー記事は、以下の3つの点について論じてある。
①ポストモダン思想とハーバマスを分かつ点
「私は、主観性形而上学に対する批判は古くからある形だということ、
そして、それは近代的なるものに関する最初の討議に影響を与え、
ニーチェ以来、絶えず遂行論的矛盾につきまとわれ脅かされているのだ、
ということを示す一つの歴史を語っているに過ぎないわけです。」
つまり、モダン-ポストモダンを区別するとされる、主観性形而上学
に対する批判は、モダンに内在的な議論であったこと、そのため、
歴史の連続性を断絶する根拠になりえない。モダンへの批判としての
ポストモダンがモダンに依拠せざるを得ないことを「遂行論的矛盾」
と言っているのでしょうか。
②歴史主義による批判と、現代の課題について
「我々は、客観的目的論、総体性、絶対者等々を支持する形而上学的やり方に、
物事解明の権限を単純に再付与できないのです。しかしまた、他方において、
私は、ハイデガーが彼の形而上学的伝統に関する講義で提示したような、
プラトンからニーチェに至るまでの形而上学的連続性、すなわち、形而上学は
存在(das Sein)の代わりに存在者(das Seinde)を置く物象化されたやり方に
過ぎなかったという思想も、信じておりません。」
ハーバマスは、一方で、近代において形而上学を前提とすること
は出来ないという。他方で、形而上学が単なる主観主義でしか
なかった(?)という思想も、認めない。
「そうする(ポスト形而上学的前提から物事を考える)からといって、
何も我々が不安定で偶発的で一時的で地域的・地方的なある特定の
歴史的文脈に閉じ込められていることにはなりません。何故我々は、
そうした文脈に閉じ込められなければならないのでしょうか。」
「我々は、あらゆる論証的討議の形態に関して反省的な態度を
とりうるチャンスはもっています。」
ハーバマスは、この反省的な態度に依拠する討議に
現代社会への規範的方向付けの役割を期待をします。
「コミュニケーション的構造をもつ生活世界の強力な防御を促進しなければなりません。」
③「コミュニケーション的行為の理論」の意味
「あなたは、了解という理念に頼ることなしに、言語が何であるかを説明できません。
…中略…あなたは或る特定の前提から出発することを拒めないという弱い意味での
超越論敵必然性が存在するのです。」
了解の必要条件に、「規範的内容をもつ必然的な語用論的前提」というもの
がある。これは、もしあなたが行う行動に対して、私は、あなたに対して、
それが間違っていようといまいと、あなたがまじめな説明が出来ることを
前提として、「あなたは何をしたのですか」とか「あなたは何を言ったのですか」
とたずねる。これを、了解とよび、ハーバマスは相互主観性の基礎となり、
コミュニケーション的行為を通じた社会規範を作ろうとした。
かなり、荒いまとめですが、こんなとこでしょうか。以下、感想。
①は、遂行論的矛盾という用語は、もうちょっと詳しく知りたいですね。
この用語は、『近代の哲学的ディスクルス(1・2)』(岩波書店, 1990年)に
出てくるようですね。確かもってたはず・・・。
社会学の中では、ギデンズが議論しているモダニティの議論などがこれに
あたるんでしょうか。構造化理論の社会の捉え方などがこれと似てると思います。
でも、遂行という概念が入ることで、ギデンズより動的にとらえている気がします。
加えて、1990年ごろのフェミニズムの議論で登場したパフォーマティブ(J・バトラー)
なんかの話も、これと関係あるんですかね。あっちは、アルチュセール、
サール、フーコーなどを基にして、もっとミクロな議論だった気がしますが。
②これは、ネオ・マルクス系の研究者のマルクス主義批判と似てる構造でしょうか。
「資本主義は、イデオロギーだとして批判する」という「イデオロギー」というメタ構造。
要は、マルクス主義もイデオロギーの一つじゃんっと言って、相対化する視点。
では、どうすんの?という問いに、ハーバマスがとったのが、弱い超越論としての
了解を前提とした、コミュニケーション的行為の理論なわけですな。
その前に、ローカリズムの否定と誤解されそうな箇所がありますよね。
この根拠がいまいちよく分かりませんが、とりあえず、必然的理由はないということが、
インタビュー内では根拠とされています。
確かに、或る特定の時間・特定の地域に限定的な秩序を構想する多元的秩序の必然的な
根拠は、ないように思います。とはいえ、秩序が必要な領域は、多元的であるような場合
は、ありえるとおもいます。例えば、ごみの分別。収集されたゴミについて、高温で焼却できる
炉があれば、分別する理由がなく、そうなると、そもそもの分別ルールは必要ありません。
しかし、ハーバマスは、そんなことを言っているのではないでしょう。どちらかというと、個別の
問題というのは、コミュニケーション的行為を用いた討議の過程においてなされるべきことであり、
そのコミュニケーション的行為を成立させる必要条件に了解が位置づけられるということ
なのでしょうか。つまり、了解は普遍的であり、了解に基づいたコミュニケーション的行為の
結果は、多元的であるということでしょう。
じゃあ、人間の反省は、了解を前提としたコミュニケーション的行為とどう関係するのか。
おそらく、この反省性は遂行論的矛盾がその起源となっているのではないでしょうか。
一方で、形而上学的伝統に基づいた本質主義が存在し、他方で、本質主義とは、異なる本質を
措定することで、なりたっている反‐本質主義がある。
感覚的に理解するならば、「一般的には、こうすべきだ、このやりかたが正しいと言われている
けれども、実際の業務の中では、現場の事情で別のやり方じゃないと仕事にならない」という
ような感じ。これを、正しいやり方でやってもらわないと困るという経営者に対し、そんなやり方だ
と品質も担保できないし、納期に間に合わないから無理だという現場、これ中間管理職として
どう解決すればいいのかという解(もしくは落とし所)を見つけるプロセスにおいて、発揮されるもの
としての反省。こうとらえると、反省は、コミュニケーション的行為の中に織り込まれている駆動力
のようなものなのでしょうか。
③了解に関しては、②で触れたので、その疑問点について。よく言われている批判で、素朴なものは、
了解すら成り立たない場合があるんじゃないのか、というもの。これは、主に障碍者の問題です。
そもそも、了解としてとらえきれない可能性をもつ人々の存在。了解をどのようにとらえればよい
のでしょうか。この辺になると、引用元のヴィドゲンシュタインを確認せねばならんのか・・・。
次に、了解ではなく、コミュニケーション的行為の次元で問題になると思うのですが、
自分の言語をもたない人の問題です。これは、在日朝鮮人の2世3世や、先進国に来た途上国
の女性、ゲイ・レズビアンなど、いわゆるマイノリティの問題です。彼らは、了解はなりたちます。
しかし、コミュニケーション的行為において、彼らは彼ら固有の問題を、私たちの言葉でしか
語れません。そのほかの言葉は知らないし、彼ら自身の言葉は、私たちの言葉によって理解を
上書きされたものですから。
この点の議論は、スピヴァグあたりを参照しなければなさそうですね・・・。
最後に、相互主観性について。もしかして、今までの相互主観性についての僕の理解が
間違ってたかもと、思いました。どうも、主観的な相互性を相互主観と呼ぶような気がしました。
以上。
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