忍者ブログ
備忘録と日々の雑感,ときどきオリックス。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

タイトルから想像できるような話ではないですが、最終的に
ロールプレイングゲームの話になるはず。

ここ数年で、調整役をやることが多くなってきた。

調整といっても、飲み会の幹事から、進捗の管理、後輩の指導や、
アポ取りなどさまざま。もちろん、それは一般的な企業間の、利害
の調整といった取引ではないので、他の人から見れば、調整と呼べる
ほどのものでは、ありません。

とはいえ、ぼくは、こういのうがものすごく苦手です。身近なことでいえば、
自分の作った料理を他人に振る舞えるかどうか?といったことですら、
ぼくは、気が引けます。

というのも、以前1度ものすごい不味いお好み焼きを作って、友達に
食わせたところ、そいつは全部食ってくれたんですよ。ぼくは、残しましたが。

そいつは、1週間ぐらい僕んちに転がり込んでたので、多少負い目があって
食ってくれたのだと思います。それが逆に、僕に違和感を感じさせたのだと思います。



 *****
他にも、彼女がいた頃も、その子が「一緒にお昼ごはん作ろう」って言った時も、
当時、1人暮らしでキッチンが狭かったということもあって、効率が悪いから、
下準備だけ二人でして、調理自体は、それぞれでやりました。

なんか共同作業って、基本的に効率悪いとおもっちゃうんですよね。
作業にもよりますが、相手より自分ができる場合は、そう思うことがしょっちゅう。
逆の場合は、なんとなく足引っ張ってるよなって思っちゃう。

まぁ、実際、必ずしも「効率よく」作業を達成することが目的ではなく、
単に達成できれば、問題ない場合が多いんですが。

じゃあ、なんで「効率よく」を意識してしまうのか。その理由は、
共同作業の場合、コミュニケーションのロスが、結構多いんですよね。

普通のミスの場合、たいてい誰が悪いか明確で、何をすれば、改善できるか
っていうのは、ある程度明白です。でも、コミュニケーションのロスって、
どちらか一方が悪いってわけじゃなく、両方ともにミスがあったり、
相手によって、詳細なコミュニケーションをとること自体が、ロスだと
思う人もいるわけです。

たとえば、言い間違いや、誤解、報告・連絡のし忘れ、曖昧な指示、これは
全部コミュニケーションのロスによって生じているわけで、ちゃんと確認
をすれば、解決できることです。

でも、実際には、少々の言い間違いや曖昧な指示ぐらい、何をやろうとしてるか
さえ理解できてれば、脳内で修正・補完できる場合や、いちいち報告されたら、
そんなことぐらい自分で判断できるだろうと思う場合、また、いちいち詳細な
指示を出さないと何もできないのかと思う場合などがあります。これらは、
詳細なコミュニケーションをとることに起因するロスです。

てことは、調整には、時と場合、相手に応じて、ほどほどのコミュニケーションが
好ましいということになります。でも、ほどほどって、なんなんでしょう。実際、
こんなことは、教えてもらうものでもなく、教えてもらって理解できても、行動に
移すのは、そう簡単ではないでしょう。だって、調整する相手は、いつも同じ人
じゃないし、同じ人でも時間が違えば、ぜんぜん考えてることが変わってる
ことですら、しょっちゅうですから。

じゃあ、自分にコミュニケーション能力がないのか。そうかもしれません。
押しも弱いし、すぐ緊張しちゃうし、赤面症でもあります。しゃべるより、
眺めてる方が好きだし。

とはいえ、調整のコツなんてものは、いくらでもあって、意見を通すのであれば、
相手の弱みを握り、こっちの弱みを見せないことや、最初に上下関係を分か
らせるとか、相手が諦めるまでねばるとかいろんな方法があるとおもいます。
そういうハウツー本もたくさん出版されてますし。

普通の会話ですら、ネタフリ、オチ、二回言う、擬音、ボケ、ツッコミ、
ノリツッコミ、例え話、暗喩、メタファアーなんてものも、テクニックでしょう。

あるNPOの事務局長さんとお話しする機会があった時、理事長をどうやって選んだか
って言う話になったとき、その理事長の笑顔が決定因だったとおっしゃってました。
実際のところは、わかりませんが、確かに顔の表情や態度もテクニックです。
髪型やネクタイの色、着ている服なんてのもそうです。

このようにテクニックのバリエーションは、多種多様であり、多くの人は、
意識的/無意識的は別にして、いろんなテクニックを利用してコミュニケーションの
現場に入っていきますし、自分だってそのつもりでやってます。

じゃあ、なぜ苦手なのか。素朴に思うのは、社会経験の不足、つまり、
押しが弱いと契約取れないとか、緊張する場面に出くわしていないとか、
なんだと思います。

つらつら書いてきましたが、言いたいのは、そんなことじゃなくて、近年
「コミュニケーション能力」というコトバを耳にする機会が増えてきた中で、
実際に、多くの人が「コミュニケーション能力」を獲得していこうとする場合、
どうなるのかという点です。

非常に素朴な視点ですが、画一化が非常に進みそうな気がするのです。
何を言えば、相手がどういう反応をするのか/あるいはどういう反応をしな
ければならないのか。仕事の時の服装、遊びの時の服装、話し出すタイミング、
不満な表情、好意的な表情。現在でも、そういった振る舞いに関する画一化は
進んでいますが、これを「能力」として位置づけた瞬間、それは上下として
位置づけられ、習得すべきものとして規範化されます。

大学全入時代を向かえ、公的教育以外の教育システムが増加する中で、
これらのテクニックは、今までは多少なりとも私的な事柄として位置づけられて
いたものが、パブリック的なもの(官的とは異なる意味で)として、位置づけられ
コントロールされていく。

もちろん、テクニックは、どのような教育経路を辿るかで何が必要かが異なり、、
アッパーとローワーでも違いが明確になっていくと思います。教育・生活環境
、キャリアパスが、テクニックの習得に影響を与えることは、自明でしょう。

私的な領域に閉じ込められていたコミュニケーションテクニックは、パブリック
的で明示的になる。多様で異質であることと、異質であることを前提とした理解
しようとする努力は、それぞれのキャリアパスのなかで必要なテクニックの一覧表
のなかで規定されるので、意思疎通できないのは、相手にコミュニケーション能力
がないからだという理由で否定されていく。要は、話の通じないやつには、話する
だけ無駄だという話。

結果、各人の人生の軌道にそって、必要なテクニックを習得していくプレーヤー
として、ロールプレイングの主人公になっていく。適度な多様性と、適度な異質性、
適度な選択可能性と、永遠に分かり合えない関係を前提として、強くなるかならないか、
どんな職業で、どんな能力をもつかは、自己責任となる。

もちろんコミュニケーション能力を前提とした指標や習得カリキュラムを完遂しても、
実際にコミュニケーション能力とよばれるものが、身につくかどうかは別です。

異分野間のコミュニケーションでは、コミュニケーションをとった後、事後的に
コミュニケーション能力がある人だった、ない人だったと判断されることになるでしょう。

しかし、このようにして私的な領域とされていたところに、カリキュラムなり、
評価基準が設定されだすと、できない理由を個人に求めることにつながります。
そもそも、コミュニケーションは、他者ありきの共同作業にもかかわらず・・・。

今まで、あいつはこういう性格だから仕方がないとして、許容した上での共同作業で
あったものが、あいつは能力がないもしくは劣っているから、仕方がないとして、
許容されず、減点の対象となっていく。

コミュニケーションを私的な共同達成として、能力ではない形でうまく概念化した
議論ってなんかないんかなぁー。
PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
[49] [48] [47] [46] [45] [44] [43] [42] [41] [40] [39]
カレンダー
06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
リンク
最新コメント
[06/11 うえってぃ]
[08/04 .]
[11/09 通りすがり]
[10/31 たろう]
[10/30 むねるる秋のx]
プロフィール
HN:
ぱりーがー
性別:
男性
趣味:
いろいろ。うすくひろく。
ブログ内検索
カウンター
アクセス解析
忍者ブログ / [PR]
/ テンプレート提供 Z.Zone