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前の記事が、修正できてないけど、とりあえずなんか書こう。
Blog再開なので、なんか書いておかないと、また書かなくなりそうなので・・・。
先々週の末に、風邪を引いちゃいました。それが残っているのか、解熱してからも、
ノドの痛みと違和感+咳がよく出るんですよね。特に、寝るときが大変で、咳き込んで
なかなか寝付けない。咳でこんなに苦労するとは!それに外出すると、帰宅後、微熱が
出たり、頭痛がしたり・・・ひどいもんだ。
実は、去年も同じ頃に、別の病気(お腹でなんかが突き刺さるような痛みが2-3日続きました)
で、病院行ってたんですよね。そのときは、結局、医者に原因がよく分からんと言われ、血液
検査だけして帰宅しました。結局、次の日から痛みはコロッと消えたので、検査結果は、ほった
らかしにしてたんですけど、今回風邪で、そのときの検査結果が一年越しに返ってきました。
それによると、どっかで炎症を起こしてるというものだったようです。確か、去年は、ウィルス性
腸炎が流行ってたそうです(知り合いの看護士さん談)。どうやらそれだったようです。
ま、今更去年の話しても、意味ないんですけどね。
ただ、一ついえることは、どうも僕の場合、毎年この時期はDAWNしちゃう傾向にあるよう
です。よく考えれば、中学生になる年の3月ごろにも風邪引いてたし、ここ数年もよく風邪
引いてるような気がします。
なんなんでしょうね。この時期には、なんか気が緩むor心身が疲れることがあるんでしょうか?
あー、やだやだ。やっぱし、健康が一番ですね。何事も。
そういえば、風邪引いて分かったんですけど、インフルエンザの簡易キットを使った検査って、
熱が出てすぐ検査すると、陽性であっても陰性と出てしまう場合があるらしいようですね。
成人の場合、たまにあるそうです。
僕の場合、熱を自覚して、2-3時間後に病院に行って、結果は「陰性」でした。その後、医者から
先ほどの説明を受けて。「え・・・じゃあ、今検査しても意味なくない????」と思ってしまいました。
とはいえ、翌日から熱は一応さがったので、インフルエンザじゃなかったそうですが、検査キットも
あてにならんようですね。とはいえ、タミフルは、発熱後24-48時間以内に飲まないと、効果ない
そうですし。「インフルエンザかも?」って思ったら、半日ぐらい菌を体内で熟成させろということなんで
しょうか・・・
えっと、先月は、忙しかった。
エビもイカもトマトも美味かった。
やっぱし、食べ物は採れたてが、美味いんだなぁ。
モノによっては、輸送できん(物理的に死んじゃうとか、輸送コストが
バカ高くなるとか)のもあるみたいだし。
確か、栄養学系の雑誌にも、関アジ関サバの鮮度ももって18時間とか
書いてあったし。成分が変質しちゃうらしいですね。
いちおう、鮮度を維持するために、一本釣りして、生きたまま運んで、
到着後、血抜きするらしいですが、それでも鮮度は落ちるらしい。
大変だわ。都会で良いもの食べようとするのは・・・金かけないと無理ですな。
先月の思い出でした。
食関連法規等のリンクを貼ろうと思ったけど、記事分けます。
今年に入ってから、コミュニケーションについて考えてます。
ポストモダン哲学の流行とともに、注目されていた「共訳不可能性」の問題。その起源は古く、唯物論や唯名論の議論にさかのぼって考えることができると思います。
最も注目されたのは、「コギト エルゴ スム(我思うゆえに我あり)」(ドイツ語綴りは知りません)でしょう。 世界の存在を疑い続けていけば、自分の存在を証明する必要があり、自分の存在の根拠を、自己の思惟に求めるという結論に達したということだったと思います。 この発想から、他者の存在を捉えようとすると他者は、自己の思惟の中でしか現れなくなっちゃうという話。
この問題は、いろんな哲学者が、解決を提示してきましたが、そのほとんどは破綻していると言われています。 現在のところ、基本的な理論の展開は、他者の存在を疑おうが自明視しようが、そこに他者が存在すると仮定する方が生産的であり、実際的だということで、この問いについて多くの哲学者は不問に付しているのではないでしょうか。
他者の存在を仮定した上で、他者と自己との関係を明らかにしようとした結果生じた問題が、共訳不可能性の問題だと思っています。 要は、それぞれ異なる意思や志向性をもつ自己と他者は、いかにしてコミュニケーョンを成立させるのか?
私たちは、対象(他者・モノ・概念)に対して、多様に働きかけます。と同時に、対象が存在することで、私たちが対象を多様に意味付与し解釈し、解釈したものを理解すると言う意味で、この働きかけは、相互的であり、同時発生的です。 問題は、ここでこの相互行為は、一見成り立っているように見えるけれども、果たして、そこでの相互行為の参加者は、同じように相互行為が「成り立っている」と考えているのかという点です。
分かりやすい例としては、コミュニケーションにおける誤解や、連想ゲームでの失敗などでしょう。このような場合、互いに、コミュニケーションが成立していると思っていても、その内実は、コミュニケートしていること自体への合意であり、そこでのコミュニケーションが有意味的であるかどうかにおいて、コミュニケーションに失敗しているということになります。 このコミュニケーションの形式上の成功を敷衍すると、コミュニケーションスキルという発想がでてくると思います。それは、目線や体の向き、呼びかけへの適切な応答など、多様なレパートリーを習得することが、スキル向上につながるのだと思います。
とはいえ、コミュニケーション内容について言えば、「共感」「合意」など、一致した見解に達したということも多々あります。 では、この「共感」「合意」を、形式上の成功と捉えなおしたら、どうなるのか?
続きます・・・