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今年に入ってから、コミュニケーションについて考えてます。
ポストモダン哲学の流行とともに、注目されていた「共訳不可能性」の問題。その起源は古く、唯物論や唯名論の議論にさかのぼって考えることができると思います。
最も注目されたのは、「コギト エルゴ スム(我思うゆえに我あり)」(ドイツ語綴りは知りません)でしょう。 世界の存在を疑い続けていけば、自分の存在を証明する必要があり、自分の存在の根拠を、自己の思惟に求めるという結論に達したということだったと思います。 この発想から、他者の存在を捉えようとすると他者は、自己の思惟の中でしか現れなくなっちゃうという話。
この問題は、いろんな哲学者が、解決を提示してきましたが、そのほとんどは破綻していると言われています。 現在のところ、基本的な理論の展開は、他者の存在を疑おうが自明視しようが、そこに他者が存在すると仮定する方が生産的であり、実際的だということで、この問いについて多くの哲学者は不問に付しているのではないでしょうか。
他者の存在を仮定した上で、他者と自己との関係を明らかにしようとした結果生じた問題が、共訳不可能性の問題だと思っています。 要は、それぞれ異なる意思や志向性をもつ自己と他者は、いかにしてコミュニケーョンを成立させるのか?
私たちは、対象(他者・モノ・概念)に対して、多様に働きかけます。と同時に、対象が存在することで、私たちが対象を多様に意味付与し解釈し、解釈したものを理解すると言う意味で、この働きかけは、相互的であり、同時発生的です。 問題は、ここでこの相互行為は、一見成り立っているように見えるけれども、果たして、そこでの相互行為の参加者は、同じように相互行為が「成り立っている」と考えているのかという点です。
分かりやすい例としては、コミュニケーションにおける誤解や、連想ゲームでの失敗などでしょう。このような場合、互いに、コミュニケーションが成立していると思っていても、その内実は、コミュニケートしていること自体への合意であり、そこでのコミュニケーションが有意味的であるかどうかにおいて、コミュニケーションに失敗しているということになります。 このコミュニケーションの形式上の成功を敷衍すると、コミュニケーションスキルという発想がでてくると思います。それは、目線や体の向き、呼びかけへの適切な応答など、多様なレパートリーを習得することが、スキル向上につながるのだと思います。
とはいえ、コミュニケーション内容について言えば、「共感」「合意」など、一致した見解に達したということも多々あります。 では、この「共感」「合意」を、形式上の成功と捉えなおしたら、どうなるのか?
続きます・・・