備忘録と日々の雑感,ときどきオリックス。
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J.カラー〔著〕 富山太佳夫・折島正司 〔訳〕
『新版 ディコンストラクションⅠ』岩波現代文庫
25年前に書かれた『ディコンストラクションⅠ・Ⅱ』の25周年版。
「25周年版への序文」が追加されている。原著初版は、1982年。
============================================
『新版 ディコンストラクションⅠ』目次
二十五周年版への序文
まえがき
序説
第1章 読者、そして読むこと
1 新たな可能性
2 女として読むこと
3 読むことの物語
第2章 ディコンストラクション(脱構築)
1 書くこととロゴス中心主義
2 意味と反復可能性
3 接ぎ木
============================================
文芸批評・文学理論の視点から、ジャック・デリダによって提示された
「ディコンストラクション」の概念を整理し、その応用可能性について
論じたもの。前者をⅠで、後者をⅡで論じている。
「二十五周年版への序文」は、主に「ディコンストラクション」の他分野
への受容・展開を、大まかに概説している。その分野は、①フェミニズム/
ジェンダー研究/クィア理論、②宗教/神学、③建築、④政治/法学/
倫理学。知ってる人なら、知ってることが整理されているという感じ。
ただ、脱構築の方法に関する教科書(?)があることは知らなかった。
Royle, Nicholas.,ed. Deconstructions: A User's Guide. london: palgrave, 2000.
『新版 ディコンストラクションⅠ』岩波現代文庫
25年前に書かれた『ディコンストラクションⅠ・Ⅱ』の25周年版。
「25周年版への序文」が追加されている。原著初版は、1982年。
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『新版 ディコンストラクションⅠ』目次
二十五周年版への序文
まえがき
序説
第1章 読者、そして読むこと
1 新たな可能性
2 女として読むこと
3 読むことの物語
第2章 ディコンストラクション(脱構築)
1 書くこととロゴス中心主義
2 意味と反復可能性
3 接ぎ木
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文芸批評・文学理論の視点から、ジャック・デリダによって提示された
「ディコンストラクション」の概念を整理し、その応用可能性について
論じたもの。前者をⅠで、後者をⅡで論じている。
「二十五周年版への序文」は、主に「ディコンストラクション」の他分野
への受容・展開を、大まかに概説している。その分野は、①フェミニズム/
ジェンダー研究/クィア理論、②宗教/神学、③建築、④政治/法学/
倫理学。知ってる人なら、知ってることが整理されているという感じ。
ただ、脱構築の方法に関する教科書(?)があることは知らなかった。
Royle, Nicholas.,ed. Deconstructions: A User's Guide. london: palgrave, 2000.
*****
第1章 読者、そして読むこと
第1節 新たな可能性
●近年、文学理論において読者や受け手というテーマが、中心を占めだした。
↓ それは、なぜか?
①文学におけるコードに対する構造主義的・記号論的関心
⇒コードがコードとして機能することを説明するためには、読者の概念が必要になる。
②ある種の実験的フィクションが読者に強いた構成者としての役割
⇒モダニズムの文芸技法は、読者による構成がないと成り立たないようになっている。
③扱いにくい現代の作品を論ずる方法の必要性
↓ 読者への注目は、何を意味するのか?
「読者論的な批評は、文学作品の意味と構造についての自らの考え方を
裏付けるために、理想の読者なり現実の読者なりが、発見し、感じ、
不思議に思い、憶測し、結論することを拠り所にする。そこで、
読者とは何か、彼の体験とは何か、という問題が出てくることになる。」
↓ なぜなら、読者がコードを理解するには、読書体験が前提になるから。
●「ここで明らかになっているのは、一つの奇妙な構造である。・・・中略・・・
一方では体験は拠り所となるべき与件とされる。ところがもう一方では、
こうして用いようとする体験が、特殊な操作-ここでは知識の獲得と個性の
抑圧-によって産出されることになっているのだ。」
↓ だとすれば、
「もしも文学の体験が読者の自己の性質に関わっているとすれば、例えばこの
自己が女性であって男性でないとき、文学の体験(したがって文学の意味)
がどう変わるかを、問うことができる。」
第2節 女として読むこと
●フェミニズムによる文芸批評
①女性読者という概念を追求することによって、社会的・日常的な女として
の体験と、読者としての体験とは連続している
⇒しかし、女でなくても女として読むことができる。
⇒つまり、フェミニズム批評の関わっている問題は、実は「女性の読者を
仮設することによって、私たちがテクストの性的コードの重要性に気づき、
そのことによってそのテクストの理解が変更されるということ」なのである。
(エレイン・ショワルター『フェミニズム詩学に向けて』)
↓ 仮説としての女性読者の問題に移行することで、
②女は、女として読んでこなかったということが問題になる。
⇒「(男性による読みの限界に縛られない)仮説としての女の読者の体験に
依拠し、女が女として、読むことを可能にする視点や疑問を具体的に解明
していくことを通じて、そうした体験を獲得しようと試みる。」
③男性的なものと理性的なものとの結びつきに異議が唱えられるのではなくて、
理性的なものという概念自体が男性の利害と結びつき、それと共犯関係にある
ことが問題化される。
●「読者体験への依拠は、男性の批評で用いられる概念や手続きのシステム
をずらし、解体する梯子となりうるだろう。しかし、「体験」がつねに分裂した、
捉えがたい性格をもっていることには変わりない。それは常に既に生起しており、
にもかかわらずこれから生み出されなければならないのだ。それは不可欠の起点
でありながら、決して端的に存在してはいないのである。」
●「女として読むことは、女にとって、あらかじめ与えられた同一性や体験を繰り返すこと
ではなく、女としての自己同一性をもとに女が構成する役割を演ずることであるが、この
自己同一性が既に構成されたものなので、<女として読む女として読む女>という連鎖
はどこまでも途切れないことになる。このずれが明らかにするのは、女と、いやあらゆる
読みの主体とその主体の「体験」の中にある一つの隙間、分裂である。」
第1節 新たな可能性
●近年、文学理論において読者や受け手というテーマが、中心を占めだした。
↓ それは、なぜか?
①文学におけるコードに対する構造主義的・記号論的関心
⇒コードがコードとして機能することを説明するためには、読者の概念が必要になる。
②ある種の実験的フィクションが読者に強いた構成者としての役割
⇒モダニズムの文芸技法は、読者による構成がないと成り立たないようになっている。
③扱いにくい現代の作品を論ずる方法の必要性
↓ 読者への注目は、何を意味するのか?
「読者論的な批評は、文学作品の意味と構造についての自らの考え方を
裏付けるために、理想の読者なり現実の読者なりが、発見し、感じ、
不思議に思い、憶測し、結論することを拠り所にする。そこで、
読者とは何か、彼の体験とは何か、という問題が出てくることになる。」
↓ なぜなら、読者がコードを理解するには、読書体験が前提になるから。
●「ここで明らかになっているのは、一つの奇妙な構造である。・・・中略・・・
一方では体験は拠り所となるべき与件とされる。ところがもう一方では、
こうして用いようとする体験が、特殊な操作-ここでは知識の獲得と個性の
抑圧-によって産出されることになっているのだ。」
↓ だとすれば、
「もしも文学の体験が読者の自己の性質に関わっているとすれば、例えばこの
自己が女性であって男性でないとき、文学の体験(したがって文学の意味)
がどう変わるかを、問うことができる。」
第2節 女として読むこと
●フェミニズムによる文芸批評
①女性読者という概念を追求することによって、社会的・日常的な女として
の体験と、読者としての体験とは連続している
⇒しかし、女でなくても女として読むことができる。
⇒つまり、フェミニズム批評の関わっている問題は、実は「女性の読者を
仮設することによって、私たちがテクストの性的コードの重要性に気づき、
そのことによってそのテクストの理解が変更されるということ」なのである。
(エレイン・ショワルター『フェミニズム詩学に向けて』)
↓ 仮説としての女性読者の問題に移行することで、
②女は、女として読んでこなかったということが問題になる。
⇒「(男性による読みの限界に縛られない)仮説としての女の読者の体験に
依拠し、女が女として、読むことを可能にする視点や疑問を具体的に解明
していくことを通じて、そうした体験を獲得しようと試みる。」
③男性的なものと理性的なものとの結びつきに異議が唱えられるのではなくて、
理性的なものという概念自体が男性の利害と結びつき、それと共犯関係にある
ことが問題化される。
●「読者体験への依拠は、男性の批評で用いられる概念や手続きのシステム
をずらし、解体する梯子となりうるだろう。しかし、「体験」がつねに分裂した、
捉えがたい性格をもっていることには変わりない。それは常に既に生起しており、
にもかかわらずこれから生み出されなければならないのだ。それは不可欠の起点
でありながら、決して端的に存在してはいないのである。」
●「女として読むことは、女にとって、あらかじめ与えられた同一性や体験を繰り返すこと
ではなく、女としての自己同一性をもとに女が構成する役割を演ずることであるが、この
自己同一性が既に構成されたものなので、<女として読む女として読む女>という連鎖
はどこまでも途切れないことになる。このずれが明らかにするのは、女と、いやあらゆる
読みの主体とその主体の「体験」の中にある一つの隙間、分裂である。」
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