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気になってるので、旅回顧録の途中ですが、はさんじゃいます。
竹田青嗣「ハイデガー存在論への展開」pp.65-69
●現象学は、<意識>から世界の表れを記述する。
現象学のこの方法は、元来、認識と対象、あるいは、
思惟と存在の一致をどう見出すかという、認識論上の問題
であった。
●ハイデガーは、この問題を認識論の問題としてより、存在論
の問題の基礎として位置づけなおす。つまり、「ある(存在
する)とは、いったいどういうことなのか」
●「モノがなぜあるのかとか、なんのためにあるのか」は、
さしあたってモノが人間にとってどういう存在としてあるか
ということ、つまり、モノの客観的秩序といわれているもの
は、実はそれが人間にとって現れる秩序をしめす。
●では、「人間という存在は、いったいどのような存在なのか」。
人間は他の多くのモノと違い、モノの存在を規定するような
存在者(=現存在)である。
●では、現存在を規定するのは何か。人間の存在の意味もやはり
人間によってたしかめられるほかない。しかし、「意識」と
いうモノのあり方は、外側から見るわけにはいかない。「意識」
のあり方はただ、当の意識自身が自分を見たその通りのものを
記述してゆくという方法方法によってしかとらえられない。
●ハイデガーは、現存在の存在を「気遣い(顧慮)」という概念
で示す。人間は、さまざまな「世界の内部」の存在者を、
意味連関として把握する。このような方法を、現存在は世界に
対して「気遣い」という態度をとって生きているという風に
ハイデガーはいう。
●さらに、もう一つの要素して「時間性」がある。なぜなら、
意味連関は、「時間性」に規定を受けているから。つまり、
この「時間性」が、存在の意味に影響を与える。
●「時間性」とは、<死>の観念をさし、その根本的性格として、
経験できないもの、切迫した可能性、存在できないことである。
●こういった<死>は、現存在に2つの影響を与える。一つは、
<死>の脅威を柔げようとし、「不安」を常に持たせることと
なり、それを打ち消すために真の状態から目を背けさせる
(「頽廃」、「世人」、「空談」)。もう一つは、<死>の
可能性を直視することで、「本来的に存在しうること」という
自己の有り方を自覚する場合である。
=「まず、<死>の観念は、人間にその生を「限定された時間」
という相で示すために、「気遣い」としての意味連関は、時間
的に配列された秩序として現れる。さらに、<死>の観念は、
人間にその生を、一回きりで決して取替えのきかない、自分に
とっての絶対物、という本質的な性格を持ったものとして指し
示す。そしてそのことが、人間における「良心」あるいは「倫
理的なもの」の根拠をなしている。
☆疑問点
1.<死>と「時間性」の観念は、互換可能(=同義)なのか?
おそらく、<死>の観念を前提として「時間性」を客観的
秩序に包含させていると捉える方が、納得しやすい。例えば、
「いつ死ぬかは、分からないけど、死ぬまでに、あることを
やっておきたい。だから、今このことをやっているんだ。」
みたいな意味連関を作り出すように。
2.<死>や「時間性」を現存在の根本構造に挿入するとして、
これらの観念は、どのようにして発生するのか?「意識」
のあり方はただ、当の意識自身が自分を見たその通りの
ものを記述してゆくという方法方法によってしかとらえら
れないのだとしたら、<死>の観念を一般化して論じる
ことが可能なのか?
3.意味連関の変化を議論の射程に入れているのか?
4.モノの存在は、議論の問いの前提にのみ用いられており、
それ以降は、意味づけの議論となっている。モノ(=対象)
は、それ以上の意味をもたないのか?
とりあえず、紹介文から生じた疑問点をまとめてみました。
原著は無理でも、訳書は読まねば・・・。
ちょっとずつやる気が起きてきたかも・・・
読んでる本
<◆> まとめ
<…> 雑感
<⇒> コメント
・東浩紀 編 『波状言論S改』 ⇒宮台真司,北田暁大,大澤真幸,鈴木謙介の対談本
…シリーズモノの模様。
◆「機能の言葉」→選択は個人の趣味→タフになれ→動機付けの問題・・・
…どちにしろ、おなじ結論・・・
◆ポストモダン、底抜け、降りる自由
…ソシオロゴスって、批評空間(第1期)とCSの中間だったということを知る。。。
…柄谷のCS批判って、どんなんやったんだろうか。。。(なんとなく)
…一般的なCS批判は、CSが対抗的な潜勢力をもったものじゃなかったということのよう。
とはいえ、位置づけ的には、対抗的公共圏をめざすもの。
⇒方法論的な批判とかは、ないのだろうか。
・・・
なんか中途半端だけど、後で修正する予定。